2022.08.31shun

オープンソース文化を持つ排他的なハイブランドは創れそうか

最近ふと「Ferrari」の商品や歴史について調べる時間があったのだが、そこでやはり考えるのは、Oddsをこれからどんなブランドにしていくのか、という話である。
この類は個人的には大好物なのだが、僕はココ・シャネルが大好きで(シャネルの製品はひとつとして持っていないがどうしてか好き)、このフェラーリにしたって、やっぱり心のどこかで「ハイブランド」というものの厚みに惹かれる部分があるのだと思う。

そして、ハイブランドをハイブランドたらしめている所以がどこにあるかをよく考えてみたのだが、おそらく僕が惹かれている場所とそれは一致する。それはズバリ「計算式の変数が少ない」ことである。

ティファニーなんかもそうだ。「こういう未来が創りたいです」を実現するための計算式が、息を呑むほどシンプルではないか。と。

「ティファニーはこういう世界を創りたくて、こういうプロダクトを人々に届けたくて、こういう驚きや喜びを与えたいです。例えばティファニーは動物の保護活動を続けています」とかいうわけだが、そりゃあ普段から売っている商品が高価であるから利益は大きく出るわけで、そしたら慈善活動だってたくさんできるよね、というだけの話でもある。

要するに、「儲けたい」から「値段を高くする」のではない。「こういう未来を創りたい」「こういうことがしたい」から考えて、プロダクトの価格が決まる。彼らがそうしている以上、その価格に異論はない。そしてその計算式がシンプルであればあるほど、僕たちは彼らとの距離を近くに感じることができる。

“この商品の売上の何%をこっちの事業に回してそこの人件費に充てつつ数パーセントをこのCSR活動の一部に回して…”

なんてことは、説明されなければただの「ブラックボックス」と変わりないし、もっといえばそんなこと説明されたくない。

“最高のプロダクトと、自分たちが望む未来を創るために、この値段で販売しています”
「えー!ちょっと高くないか??あーーでもこれが職人さんの手に渡って、動物の保護活動に回るんだもんなぁ、それでこんな素敵な商品だもんね…はい、買いますぅ!」

こういうインタラクションが理想的ではないか、僕はそんな気がする。

そして、「オープンソース」という文化はこの対極をいく思想に思えて、僕はそんなこともないような気がする。
「結局現実的には色々な諸問題があっていろんな都合があって、だからそこと折り合いをつけつつうまくやっていかなきゃいけないですよね」みたいな妥協を許さずに「こうあるべきでしょ、だってこうしたいんだから」という無垢で純粋でどうしようもなく”シンプル”な願望を、そのまま叶えようとしたら「オープンソース」と「ハイブランド」が生まれるのではないか?つまりこの2つは対極に位置するように思えて、ルーツをたどれば一緒であるように思える。

「オープンソース?え、無償で公開しちゃったらサステナブルじゃなくないですか?経営とか大丈夫なんですか?」「そもそも給料出ないのに開発に参加するインセンティブってなんすか?」

「え、全然値段おかしくない?」「これほんとにそんな価値あるのかなぁ?」

こういった具合に、いつも現実世界でなかなか万人が受け入れ難いようなシステムは、冷静に見つめると”極めてシンプル”で”まっすぐ”である。そして、それが同様の現実世界で成り立っているのは「その”まっすぐ”なビジョンに共感できるような心の澄んだオープンソース開発者」と「”極めてシンプル”な計算式をブランドと共有したことで自分がそこに携われているように思えて嬉しくなっちゃう富裕層」がいるからである。※あと富裕層を対象にするとそもそも金銭的な面で現実を見なくて済むのかもしれない。

さてここまでの話を踏まえて、Oddsのブランドを考える時は、この2人を巻き込めるような設計が大切になってくるんじゃなかろうか、と。そして、僕はそんな「理想主義だが盤石なブランド」を築きたいと強く思う。

やっぱりフェラーリとかシャネルとティファニーとかかっこいいもん。特にフェラーリなんてまだ80年しか経っていないブランドなわけだから、僕らも残りの人生をまるっとくれてやればフェラーリというブランドが築けるわけでしょう?